天下一品公式HPより引用
天下一品には懐かしい思い出があります。
豚骨ラーメン屋で私が修行中、天下一品のようなスープを作ってみたいとオーナーに言ったら「マジで無理」と一蹴されたんです。
納得いかなかった私は何でですか?!
といって理由を聞くと納得。企業の力というものを思い知らされました。
まずジャンルで言うと豚骨ではなく、
鶏白湯+ベジポタのジャンルなります。
個人レベルで作るならジャガイモや玉ねぎをレンチンまたは、炒めてからミキサーでドロドロに。
あとは鶏ガラや手羽先を圧力鍋の高圧で40分位炊いたものを合わせれば元のスープはそれらしい物が出来ます。
でも店レベルでやるとすると、
鶏白湯のスープを作り、骨が入ると良くないので一度スープを全部濾してから、大量の野菜を入れて炊いて、かき混ぜ&潰しながら火入れしていき、ジャガイモのデンプンがスープに溶けとろみが出てきたら弱火にして撹拌機で混ぜながら仕上げる。
または大量のベジポタスープを仕上げおき、
鶏白湯仕上げたら目的の濃度で合わせて、提供時は小鍋で都度温める形。この2つしかないはず。
どっちにしてもコストと手間が合わないので、個人経営の店のレベルでやるには辛いという判断でした。
やったとしてもあの値段での提供は難しいと思います。毎回ジャガイモの芽を取るのも大変だし、足も早いから回転率が良くないとすぐロスになる。
やりたい事とやれる事は違う。
よく言われたし、私もよく言う言葉なのですが修行先のオーナーとシュミレーションして身にしみた事です。
天下一品のスープを初めてお店で仕込んだ創始者は何回も焦がしてスープを駄目にしてようやく今の形になったと思うと、素晴らしい職人魂を感じずにはいられません。
さてその歴史を掘り下げていきます。
天下一品の詳細な歴史
木村勉氏の人生と背景
天下一品の創業者、木村勉氏は1940年に京都府に生まれました。彼は幼少期から勤勉で、自らの手で事業を興すことに強い意欲を持っていました。学生時代には、家族を支えるためにアルバイトをしながら、独立心を育んでいきました。高校卒業後、木村氏は会社員として働きましたが、サラリーマン生活に満足できず、いずれは自分の店を持つという夢を抱くようになりました。
ラーメン屋台の開業と初期の試行錯誤
1971年、31歳になった木村氏は、ついにラーメン屋台を開業します。当時の京都は学生が多く、屋台の需要が高かったことから、木村氏はこのビジネスを選びました。しかし、開業当初の屋台は、成功とは程遠いものでした。彼は伝統的な中華そばを提供していましたが、競争が激しく、なかなか客足が伸びませんでした。
この状況を打破するため、木村氏は独自のラーメンを開発することに専念しました。彼は様々なスープのレシピを試し、何百回も試作を繰り返しました。彼が目指したのは、「他にはない濃厚なスープ」でした。このスープが完成するまで、木村氏は日夜研究を続け、自宅の風呂場を利用してスープを煮込んだという逸話もあります。
こってりスープの誕生と評価
1975年、木村氏はついに現在の天下一品の代名詞とも言える「こってりスープ」を完成させました。このスープは、鶏ガラをベースにし、野菜やその他の材料をじっくりと煮込んで作られます。特徴的なのは、その粘度の高いスープで、箸で麺を持ち上げるとスープが絡みつくほどの濃厚さです。このスープが口コミで評判となり、屋台は一躍人気店となりました。
特に、こってりスープは「一度食べたら忘れられない」と評価され、京都の学生たちの間で広まりました。これにより、木村氏は屋台から固定の店舗を構えることを決意します。
天下一品一乗寺店の開店とその後の展開
1978年、木村氏は京都市左京区一乗寺に天下一品の1号店を開店しました。この店舗は、今でも「総本店」として存在し、天下一品ファンにとっての聖地となっています。開店当初は小さな店だったものの、次第に多くの常連客を獲得し、繁盛店となりました。
一乗寺店が成功した後、木村氏は店舗展開に乗り出します。しかし、彼はただ数を増やすだけでなく、各店舗での味の統一と品質管理に厳しく取り組みました。そのため、天下一品の味はどの店舗でも一定の水準を保ち、ファンの期待を裏切らないものとなりました。
フランチャイズ展開の開始
1981年、木村氏はフランチャイズ展開を開始します。フランチャイズ化に際しては、加盟店がきちんと木村氏の理念と味を継承できるよう、厳格な指導とサポートを行いました。フランチャイズ店でも、こってりスープのレシピは厳重に管理され、品質が維持されました。
1980年代後半になると、天下一品は関西地方を中心にその名が広まり、関東地方やその他の地域にも進出を果たします。木村氏のビジョンは、「日本全国に天下一品の味を広める」ことでしたが、その過程で店舗が乱立することなく、味のクオリティを保つための工夫が凝らされました。
1990年代の躍進とブランドの確立
1990年代に入ると、天下一品は全国的なチェーン店としての地位を確立します。この時期、ラーメン業界全体が活気づいており、各地で様々なラーメン店が競い合う中、天下一品の「こってりスープ」は一際異彩を放ち、多くのファンを獲得しました。
特に、1990年代後半には、ラーメンブームが起こり、多くのメディアで取り上げられるようになりました。天下一品もテレビ番組や雑誌で紹介され、その独特のスープが話題を呼びました。また、この時期には「天下一品祭り」と呼ばれるキャンペーンが始まり、毎年10月1日を「天下一品の日」として、全国の店舗で様々な特典が提供されるようになりました。
海外展開と現在の展望
2000年代に入ると、天下一品は日本国内での成功にとどまらず、海外進出を果たします。特にアメリカやタイなど、ラーメン文化が広がりつつある国々に店舗を展開し、日本のラーメンを広めました。海外店舗でも、こってりスープは人気を集め、現地の人々にも受け入れられています。
現在、天下一品は国内に200店舗以上、海外にも数店舗を展開しています。木村氏は「天下一品の味を世界中の人々に楽しんでもらいたい」という願いを持ち続け、今後もさらに店舗を拡大する意向を示しています。また、顧客のニーズに応える形で、軽めの「あっさりスープ」や、野菜を豊富に使用したメニューも提供し、健康志向のラーメンファンにも対応しています。
木村勉氏の死去とその後
残念ながら、木村勉氏は2016年に76歳で逝去しました。彼の死去はラーメン業界に大きな衝撃を与え、多くの人々が彼の功績を称えました。木村氏の死後も、天下一品は彼の理念を受け継ぎ、各店舗でその味とサービスが守られ続けています。
現在、天下一品は木村氏の息子やその他の経営陣によって運営されており、彼の遺志を継ぎつつ、さらなる発展を目指しています。
まとめ
天下一品の歴史は、一人の創業者、木村勉氏の情熱と挑戦から始まりました。彼が試行錯誤の末に生み出した「こってりスープ」は、日本のラーメン文化に大きな影響を与え、多くの人々に愛されています。木村氏の死後も、その精神は天下一品の各店舗に息づいており、今後も新たな挑戦を続けながら、ラーメン業界を牽引していく存在であり続けるでしょう。
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