崩れた心
こんな体験は初めてだった。
当たり前に開けていたドアすら開けれなくなること。
そしてあまりにも自分の心に負荷を掛けすぎていたことを理解したこと。
何も考えたくなかった。ただただ携帯が怖い。
広告のメールで携帯が反応することすら怖かった。携帯が作動してほしくなかった。
携帯を見ているだけで目眩と頭痛がしてくる。
部屋のなるべく遠くに、そして重ねてあった荷物の1番下に携帯を隠すようにしまった。
会社には当分出社は無理です。という文面のメールを送り、その後は何時間も寝ては起きて、また寝てという生活しか出来なかった。
私は実家にいた。
母の観察眼
異常な行動に、母親は息子が何かおかしいという疑惑から、このままで放っておいてはいけないという確信に変わったようだった。
何日もしっかりと食事をとってない。部屋からも出てこない。仕事にも行かないのだから。
母は何があったか私に聞いてきたが、思い出すと頭が痛くなる。限界に近い状態でも、親に心配かけたくない気持ちと、こうなってしまった自分に対しての恥ずかしさがまだあったのだろう。素っ気なく、
「少しそっとしといてくれ、大丈夫だから」
と、親不孝な嘘をついた。
部屋に時計を置いていなかった。
携帯が時計の役目。その携帯は荷物の下に埋もれている。
カーテンの隙間から差し込む光の量。それがあるか、無いか。それだけで何となく時間が過ぎていくことだけは理解していた。
2週間程だろうか、1ヶ月経ったのだろうか。放っておけなくなった母が、私の行動から鬱病になったと判断したようで、精神科の診察を勧めてきた。
鬱病?
正直全然ピンと来なかった。
でもその言葉を聞いた時、昔の記憶が頭の中を支配した。
専門学生の頃、地元にある居酒屋でアルバイトをしていた。そこのオーナーは超が付くほど打算的でありながらも、接客上手。料理やお酒に対して研究熱心。
人通りのそれほど多くない小さい店で、オーナーと弟子、バイトの3人で20万近くを売り上げる化け物のようなお店のオーナーが言った言葉だ。
「最近良く騒がれてる鬱病?ってやつ。あんなのはヒマなやつしかならないんだよ!俺も頭おかしくなるくらい悩んだし、お店がヒマな時は苦しんだ。でもそんな病気になってるヒマなんて無かった。子供と奥さん食わせるために死ぬ気でやったから。だから俺にはそんな病気はわからない。」
何年経ってもこの状況は、はっきり覚えている。
鬱病というものが騒がれ始めた時にオーナーと話した事だ。
私もその時は
「そうですよねー。なる人の気持ちなんてわからないです。」
そう言っていた。
しかし今、その病気に自分がなってしまったのか?
受け入れることが出来なかった。
もう少し休めば治る。俺はそんなに弱い人間じゃない。
認める事をしなかった。
母に通院を促されてから2週間程経ってからだと思う、気分の落ち込みが前よりも激しい。
実家はマンションの上の方だった。ベランダに出て高い所から見下ろすと、ここから落ちてしまった方が楽なのではないか。そんなことまで浮かんでくる。
自分が消えてしまう可能性があると考えた時、意地が消え切迫感が勝った。このままだったら廃人になる。そんな直感が走った。
母親に病気の予約をしてもらい、病院へ行く事を決めた。母は心配そうに一緒に行こうか?と何度も聞いてくるが、断った。
病気を認めた時点で堕ち続ける事に歯止めをかけたのだと、今でも思う。
病院へあと少し
予約の時間に間に合うように着替える。どこか身体は軽く頭はすっきりしていた。
でも俺は家のドアを開けることが出来るのか?
そんな不安もあったが、すんなりドアは開いてくれた。いつも通りのドアだった。
久しぶりに外に出て空気を吸うと、マンションだらけの街中なのに、透き通った空気が心地よく感じられた。
家から10数分歩いた所に病院がある。
迷わず着いて受付を済ませる。そして問診票を渡され記入するようにと言われる。
院内は水の流れる音とヒーリング系の音楽が流れており、葉の大きな観葉植物が置かれている。
座り心地の良さそうなソファーもあったが隅の椅子に座った。
問診票を書く時に周りを見渡してみると患者さんが待っていた。
スーツを着ている50代くらいの男性。
20代くらいの少し派手な髪色の女性。
どちらも顔に覇気がなく下を向いていた。
普通に過ごしてる人からすれば、俺もこんな風に見えてしまってるのだろうな。そう思うと胸が苦しくなった。
問診票を書き終え受付に渡す。数分待つと名前が呼ばれた。
診察室に入る。
先生は60代くらいだろうか、政治家のような雰囲気で剛毛の短髪で白髪が目立つ七三分けのおじさんだ。
今までの経緯と症状を伝えると、
「鬱病です。」
はっきり言われた。私は「やっぱりですか。」と、観念したかのように答える。
しかしすぐに「治るんですか?」と、言っていた。
すると先生は、
「治らない病気は無いからね。時間はかかるかもしれないけどやっていこうよ。」
そう言って私を送り出した。
診察室から出て待合室で待ち、会計を済ませ処方箋をもらった。
ふと処方箋を見てみると
「デパス」と書いてあった。少し強めの抗うつ薬らしい。もう1つは「ドグマチール」だったと思う。元々は胃薬だったのが抗うつ薬にも使われるようになった薬みたいだ。
調剤薬局で処方箋を手渡し受付を済ませて待っている時に、
改めて俺は「病人なんだな」と思わされた。
少し待ち、薬を渡されたので家に帰る。心配そうな顔をした母が出迎える。
帰った頃にはもう夕飯の時間だった。
あまり食べたくもなかったのだが、薬を飲むんだから、少しでも食べないとダメだという母の忠告に従った。
味の濃いご飯が進むおかずが並んでいる。食が進むように考えてくれたのだろう。
そんな気持ちが嬉しかった。自分が予想したより食べれた。
食後すぐに薬を飲んだ。あり得ない話だが、飲んだ瞬間元気になった気がした。思ったより私の心は単純なのかもしれない。
薬を飲んでからは数時間いつもの自分になれるような気がしていた。家にいる事が億劫にも思えるようになるし、携帯を触っていても頭痛がしない。でも薬が切れると気分が落ち込み、何もしたくなくなる。
自分なりに抗うつ薬というものを調べてみた。色々な事が書いてある。特に目を引いたのは薬に頼りっぱなしだと、いつまでも必要な身体になるという誰かの書いた記事だ。
これを見た瞬間恐ろしくなった。
居ても立ってもいられなくなり、数日早く病院へと向かった。
受付を済ませ待合室で待つ。すぐに呼ばれて診察室に入った。
先生に薬の依存性について聞いてみた。先生の返事は、
「確かにそれを言う人は少なくない。でもそれは嘘だ。大丈夫になってきたなら少しずつ弱い薬にして、自分の力で心を保てるようにしていく。だから依存にはならないよ。」
疑い深い私だが、馬鹿になることにした。疑っても意味がない。
反逆の狼煙
薬を飲んで気持ちを普段の所までもっていき、薬が切れて下がる時になるべく下がらりすぎないように、ストレスをかけない生活を心がけた。
そして慣れてきたのでなるべく外に出るようにした。当時フリーターだった友達と毎日のように遊んだ。
この時点で大分治ってきていたのかもしれない。発症してから約4カ月程経った頃の話だ。
その頃は有休も代休も使い果たして、パワハラを受けたのだからそれに伴う休職という扱いにすればよかったのだが、そこまでの知恵は当時なく、別にもういいよという感覚で自ら会社を退職していた。
原因が解消されてからは、もう薬を飲まなくても大丈夫になっており、少し気持ちがまずいかな?というタイミングの時だけ飲んでいた。
そんな生活の中、いつも遊んでいた友人は未来を決める為にフリーターを辞めてレベルの高い飲食店に修行するという話をしてきた。もちろん大賛成してあげた。奴はフリーターで終わるような男ではない。気になる点と言えば私が暇になってしまうという事だ。
どこかに就職しようと色々と考えたが、あまり気乗りがしない。
ずっと定職につかないわけにもいかない。
そんなことを考えていると、私の携帯にA支店の上司からメールが入った。
内容は、
「君の希望する場所はなるべく聞く形にするから、会社に戻らないか?今回の件は会社としても重く見ている。嫌な部分もあると思うが考え直してほしい。」
という内容だ。
確かにそれもいい。リハビリの為にもなる。そしてここまで私の心、精神をぶち壊した◇支店長は許せない。
仕返ししてやる。俺を苦しめたことを後悔させてやる。
そう思い、そのメールに返信したのだ。
【またお世話になりたいと思っています。】と
その8へ続く
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